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徳川時代、平和が続いた背景に「大名行列」が。

「戦う大名行列」を解く。乃至政彦氏インタビュー④

■鎧を着た!?大名行列「島原の乱」と「車懸り」

 寛永14年(1637)10月下旬、島原一揆と呼ばれる地方反乱が起こります。一揆軍の拡大は常軌を逸する勢いで、またたくまに一万を超える軍勢に膨れ上がります。速報を受け取った大坂城代の阿部正次は、幕府の判断が出るより前に、急ぎ九州諸大名による討伐を即断。翌月9日、詳報を受け取った幕府も討伐軍の派遣を決断しました。

 このときの一揆軍は1万6000以下、 幕府軍は4万5000以上であったというから、力攻めで押し切れると思ったのでしょう。しかし、この認識は甘く、幕府軍は思わぬ反撃に遭い、多くの死傷者を出したばかりか、総大将の戦死という最悪の結果をもたらします。 幕府はさらなる増員をかけ、総勢12万の兵で一揆軍と睨み合います。当初の三倍近い人数で、動員規模としては、大坂の陣と小田原討伐に並ぶものです。

 その中には幕命を受けた福岡藩の支藩である秋月藩(5万石)の軍勢もありました。藩主・黒田長興は動員令を受けたとき、江戸に参勤していましたが、帰国を急義、国許で閲兵の儀を行い、2500の藩兵を率いて現地に向かいます。そして原城の攻囲中、一揆軍から夜間の奇襲を受けますが、長興は武芸と兵法に長じており、これを撃退せしめたのです。翌日の総攻撃では督戦に勤め、本丸一番乗りの武功を立てます。長興は藩兵に394人の戦死 者を出しながらも島原の乱鎮圧に大功をあげ、凱旋します。

 それから200年後、秋月藩では名藩主・黒田長興の武功を顕彰すべく、島原の乱鎮圧への出征と戦闘をテーマとする屏風絵が作成されました。 それを見れば、よくある大名行列図と似通っているようでもあり、まったく違うとも思われるのではないでしょうか。この武装の順列は、今まで紹介してきた「車懸り」の軍隊編成となっていることに気づくでしょう。旗を先頭として、「鉄砲、弓、槍、そして── 大名行列では省略傾向にあるが──騎馬、という順序が多くの藩で保持された」(ヴォポリス『日本人と参勤交代』2010年)といわれる大名行列の順列が使われています。参勤交代の行列も戦国時代の軍隊編成の順列も原則としてあるのは、その用兵思想。大名行列を実戦用に武装すれば、この長興出征図と変わらない出で立ちとなるのです。

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乃至 政彦

ないし まさひこ

1974年香川県高松市生まれ。戦国史研究家。専門は、長尾為景・上杉謙信・上杉景勝、陣立(中世日本の陣形と軍制)。著書に『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y)、監修に『図解! 戦国の陣形』(洋泉社MOOK)、おもな論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)がある。



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